国立ハンセン病資料館の見学を活動仲間の遠藤茂樹さんに誘われ、初めて行ってきました。
今回は、その報告です。
資料館入口には、こんな立て札もありました。
「らい」と平仮名で書かれてもイメージが沸きませんが、漢字で書かれても理解できる人は少数と思います。
この記事では、平仮名の「らい」で統一します。
らい病とは?
らい病の分かりやすい特徴は、神経麻痺や容姿変貌です。
痛みを感じなくなるので、体が壊れそうになっても知覚できずに大怪我をしたり、常人とは明らかに違うような「身体的欠陥」を感じさせる容姿になること。
日本でも大昔から、らい病と言われている人がいました。
私の知る人では、戦国武将の「大谷吉継(よしつぐ)」。
らい病が何故起こるのかは、厳密には未だに知られていません。
しかし私は、昔からあったらい病と、近代にあったらい病(ハンセン病)は分けて考えるべきと思います。
ハンセン病
今からおよそ100年前にらい病・ハンセン病(以後はハンセン病で統一)の患者が急増したと言われています。
ハンセン病は不治の病、伝染病と広まったため、ハンセン病患者の家族は周囲からの非難が怖くなって、療養所に家族を入れる選択をしました。
諦めの気持ち
ところが、当時ハンセン病は「不治の病」。
療養所に入れられた患者は、有効な治療法もなく、一生そこで過ごさなくてはならない・・・刑務所で一生を終えるのと同じような心境だったそうです。
療養所に入ると着ていた服を脱がされ、縦縞の服を着せられたそうです。
少し離れたところに居ても、患者の存在が認識できる・・・これでは囚人服と同じです。
囚人?
これは療養所施設内でのみ使用できるお金です。
所持金は全て没収され、上のおもちゃのようなお金だけが支給されます。
患者が療養所の外に出ても無一文。
買い物もできませんし、交通手段で自由に移動することもできません。
病人?
これは当時を再現したジオラマです。
筆を持つ人、本を読む人、将棋(囲碁)を打つ人が再現されていますが、1つの部屋に多くの人が同居していました。
本当に病人なのか?と、率直な疑問を持ちました。
ハンセン病として認定されて隔離を余儀なくされた、実は健康な人という印象を私は受けたのです。
刑務所?
朝から晩まで規則で縛られています。
ハンセン病が不治の病であったとしても、病院(療養所)でこんな規則にがんじがらめ・・・。基本的人権も人としての尊厳もないがしろにされているとしか思いませんでした。
ただ、日本国憲法制定前のことでもあるので、そこは一旦保留します。
神社の模型
ハンセン病になる前は優秀な大工だった人が作ったとされる、神社の模型です。
これだけの素晴らしい仕事が出来るのに、ハンセン病と診断されて才能を十二分に発揮できなかったことを残念に思います。
宗教・娯楽・慰安
隔離された生活を送る患者に対して、宗教・娯楽・慰安が提供されていました。
人権を軽視して、罪人でも無いのに刑務所のような生活を強制されて、これで満足しろと言わんばかり・・・私には偽善にしか思われませんでした。
生命の冒涜
今では、ハンセン病は遺伝ではなく後天的な要因で起こるとされています。
当時は遺伝だったという確たる証拠でもあるのでしょうか?
根拠もなく未知の伝染病を過度に怖れ、患者をばい菌のように扱い、結婚の自由を奪い、子孫を作らせないように中絶させる・・・非・人道的行いが平然と行われていました。
人権・尊厳の冒涜として、私たちの心に深く刻み込まなくてはなりません。
監禁室・重監房
家族に会いたくて脱走した患者を監禁するためのもの
反抗的な患者を閉じ込めるためのもの
ハンセン病とは、不治の病でしたよね?
病人に対して囚人的扱いをする側が病気だと私は思いました。
舌読(ぜつどく)
全盲の人が点字を指でなぞる場面は多くの人が想像できると思いますが、こちら・・・
「舌読(ぜつどく)」と言います。
指の感覚を失った盲目のハンセン病患者が、舌で点字を読む姿です。
舌で点字を読むので、血だらけになることもあったと聞きました。
そうまでして文字を読んで知りたいこと、知った情報で様々な考察を行い、情報発信したい気持ちがあったことを想像すると・・・自然に涙が流れます。
創作活動
ハンセン病患者たちは隔離生活を受けながらも、少しでも人間的暮らしをしようと、音楽・絵画・陶芸などに打ち込み、多くの成果を残したとのこと。
せめての救いは、病人として隔離されていたが故に生活費が支給され、患者次第で前向きに生きて自由に時間を使うことができたことかもしれません。
酷使されるような過酷な時代もあったようですが、時代と共に少しずつ人間的扱いを受けるようになった経緯が垣間見えました。
ハンセン病の闇
ハンセン病患者が増えた時期を見ると、戦乱期・生活環境の悪かった時代とわかります。
水俣病なども同じですが、生活環境が悪い状態で生きている人が具合が悪くなるのは当たり前のこと。同様の健康被害を受けた人を取り上げ感染病と断定するのは無理があります。
治療薬が登場するのは新規患者が減った1950年頃。
まるで治療薬によって患者が減ったと思わせるような・・・。
思い当たったのはワクチン。
生活環境の改善で患者は減少していたのに、ワクチンのお陰と手柄を横取りする構図と同じものを感じました。
コロナ?
ハンセン病への政府の対策、国鉄の対応、メディアを見ていると、現在のコロナと同じものを感じます。
この記事はほとんど私見です。
せめてこの先は、ご覧いただいた皆様でご判断いただきたいと思い、何枚かの写真を残しておくに留めます。
らい予防法闘争
冒頭にご紹介した「らい予防法闘争70年」の立て札。
未知で不治の病であろうとなかろうと、患者の基本的人権を無視した対応が不当であるという主張が70年もの間行われ続けてきました。
病人を囚人のように扱うことは、どの國どんな時代でも決して許されないこと。
長い闘いに参加した全ての方に、心から感謝をお伝えしたいですm(__)m
日本政府の目論み
ハンセン病患者、療養所生活の患者は高齢化が進んで減少しています(現在、全国で812人)。
患者が生存しなくなることで問題が表面化しなくなる、反対者もいなくなる・・・日本政府の目論みは「時効待ち」ということがよくわかりました。
しかし、家族・縁者と隔離された高齢の患者さんが療養所を追い出されても、今より幸せになれるとは思えず・・・私としては何がベストなのか、判断に悩むところです。
納骨堂
一度ハンセン病患者と認定されると、療養所内から一歩も外出できず、そこで生涯を終えなくてはなりませんでした。基本的人権や尊厳を奪われて、さぞかし無念だったと思います。もし自分だったら・・・?と考えると、納骨堂に収められて納得できるとは思えません。
ご無念、お察しいたします。
少しでも私たちがご無念を晴らせたら・・・と思い、お祈りをしてきました。
同行した遠藤さんは念仏を、
私は自分の言葉で語って祈りました。
また、ハンセン病患者の子供というだけで、中絶を余儀なくされた子供たちへの供養のために立てられた碑にもお祈りをしました。偽善的に建てられた碑の下に眠るのはどんな氣持ちでしょうか・・・。
療養所の今
今もなお、ハンセン病患者が施設内で生活をしています。
施設への一般人の立ち入りは禁止されています。
でも、警備員が配置されているわけでもなく、長時間待ち続ければ買い物に外出する患者さんとのコミュニケーションは可能だと思います。
施設のある敷地内には物販を行っている施設もあり、患者さんたちは以前とは違ってある程度自由に行動できる様子。
おにぎり、野菜、果物、お菓子類など多くの食材が販売されていて、自炊生活をしている人もいますが・・・高齢化が進み、そういう方はわずかとのことでした。
赤い枠で囲まれた部分が居住棟です。
「若葉」「紅葉」「葵」「利根」「牡丹」・・・完全に和風の名前がずっと使用されており、ハンセン病の長い歴史を感じます。
今回の記事は、私見も多く述べました。
歴史に埋もれて良い話とは思いません。
ご関心をお持ちいただけた方は、是非ともハンセン病資料館とその周囲に直接足を運んでいただきたいと思います。想いを共有していただけましたら幸いです。