私にしては珍しく(?)、こんなタイトルで記事を書きました。
あちこちが歪んだ世の中で、多くの人が苦しんだりもがいたりしています。私は長い間、暗いトンネルを歩いてきました。
私の経験からお話しすることが、誰かの役に立つことがあれば幸いです。
長い記事なので、気持ちを固めてお読み下さい。
違和感だらけの「自己肯定感」
私は昔からずっと、「自己肯定感」という言葉が好きではありませんでした。自己肯定は良いのですが、「感」ってなんやねん!とツッコミを入れること多々でした(笑)。
それなりに自分を肯定して生きていたら充分なはずです。
しかし、自己肯定の足りない人は自分を否定しがちで、極端な自己嫌悪に陥ることもしばしばあります。自傷が過ぎて自殺へ向かってしまう人もいます。
だからこそ、自己肯定感を上げる必要は確かにあります。
命が危険な状態で長期療法的な漢方薬に頼っていては手遅れになります。救急医療は確かに必要なのです。
しかし、実像とかけ離れた自己肯定感を持つことは、当人にとって本当に良いことでしょうか?
わかりやすく言えば・・・実力が伴わないのに自信だけ過大だったら?
きっといつか心が折れてしまい・・・はりぼての自己肯定感は崩壊してしまうでしょう。
等身大の自己肯定感
幸せな生き方を学ぶ講座などでは、「自己肯定感をアップするためのアドバイス」などが行われていますが、私はこのようなアドバイスは的を射ていないと思います。
必要なのは、「等身大の自己肯定感」です。
自分がやるべきことをしっかりとやり遂げれば、それに見合う自己肯定感を得られます。もっと大きなことを達成すれば、自己肯定はより強くなります。
それこそ、健全な自己肯定だと思うのです。
講座などによる自己肯定感アップは、救急医療のようなもの
私の言う自己肯定は、漢方薬のようなもの
・・・と言えば、ニュアンスは伝わるでしょうか?
承認欲求とは?
辞書で調べてみました。
承認欲求とは・・・他者から評価されて満足する気持ちのことです。
そして、自己肯定感は「承認欲求が満たされることによって増す」という関連性があります。
自分は一生懸命がんばったつもり
→ 多くの人が認めてくれた!
→ やっぱり自分はよくやったんだ!
・・・という過程が、どんな人にも必要と思います。
自然な自己肯定があれば承認欲求は不要ですが、そういう生き方ができるようになるためには、少し回り道が必要かもしれません。
少なくとも、私はそうでした。
余談ですが、他者に愛情をかけられるかどうかも、似ている気がします。
愛情とは・・・多く受けてはじめて、自然とあふれ出るものだからです。コップに大量の水を注ぎ続ければあふれ出すのと同じです。
受けた愛情の不足している人は、他人を充分に愛することはできません。
他人を愛するよりも、愛されること、自分を愛することが先です。自分をしっかりと承認できる、承認欲求が満たされているから、他人を認めることができる。
私には同じだと思われるのです。
肯定されること、少なき人生・・・
コロナ騒動の真相に気付いた人、世の中にあふれる多くの嘘に気付いた人たちは、幼少期より周囲から「変わり者」と思われることが多かったようです。
親や先生が言うことの矛盾に気付いて指摘したり、周囲の友達に同調しないことによって、不必要な叱責を受けたりイジメの対象になることもあったでしょう。
私も含めたこちら側の人たちを・・・「私たち」と呼びます。
私たちは、周囲から肯定されることが少ない状態で大人へと成長し、その後も周囲との関係がうまくいかずに、苦しんできたように思われます。
否定されることが重なり、自分が嫌いになり、精神を病んで精神科のお世話になったり薬害を受けた方もたくさんいます。
否定から自分を守るため、理論武装を固めた人も多くいます。頭は良いのにコミュニケーションが苦手、笑顔が少ない人がこれに当たります。
私たちはがんばってきたけれど、肯定されることが少なく、否定されることが多く、自己承認欲求に飢えているのではないでしょうか?
・・・少なくとも、私はそうでした。
承認欲求を満たしたい!
今思えば、これまでの私の人生は、その連続だったと思います。
・フラメンコギタリストとして評価されたい
・努力して習得したリズムの良さを評価されたい
・男としての自分の価値を女性に認められたい
・私という個性を多くの人に評価されたい
・コロナ騒動に早く気付いた、自分の賢さを評価されたい
・一人でも街宣活動ができる勇気を評価されたい
・自分が行った活動をSNSで報告し、いいねやコメントで評価されたい
全て自己承認欲求です。
私は幸運なことに・・・真剣に取り組む過程で、承認欲求は充分に満たされました。
充分に愛されたので、これ以上愛されることを望みません。周囲を愛したい気持ちにあふれています。
積み重ねてきた自分に自信を持っています。ここから先に新たな自分を目指し、周囲の評価が付いて来なくても気になりません。賛同者が少なくとも、厳しい批判を受けても、陰口を言われても・・・全く傷付かないのです。
今となってはもう・・・他者に私を承認してもらう必要がありません。
私は自分の考えや自分の選択に自信があります。他者からの評価が気にならないので、悩みもありません。自信を持って自分のしたいことをして、愉しんで生きるだけです。
道、半ばの人たち
コロナ騒動の真相に気付いて社会活動を行っている人たちは、私にとって大切な仲間ですが、彼らとの接点が次第に減っていきました。
そんな彼らを少し離れた位置から見ていて、私は思うのです。
承認欲求が満たされていないんだな・・・と。
彼らの素晴らしいところを私は素直に褒めて、感謝を伝えています。
そして、活動の問題点や改善点などは率直に指摘します。
残念ながら、これが彼らには受け入れられないのです。
100%の肯定以外は、否定としか受け取れない・・・。
それこそ、承認欲求が満たされてない証です。がんばっている自分を最大限に褒めてもらわないと満足できないのですから。
これは以前の私と同じ状態です。
ただ褒めてくれれば喜べるのに、余計なことが少しでも混ざっていれば不機嫌になっていました。お肉とご飯を食べたいだけなのに、こちらの望まない善意で野菜を出されるのは不愉快なのです。
承認欲求を満たそう!
自己承認欲求という言葉を投げられて不愉快になるのは、図星を指されたからです。自分の未熟さを認められないから、反論して自分を守りたいという気持ちの現れです。
今の私は、それを既に卒業している自覚があるので、言われても腹も立ちません。
強い承認欲求を持つことを、私は否定しません。
必要な過程であること、私は既にお伝えしました。
結構じゃないですか!
自分を認めてもらいたくてがんばる、素晴らしいじゃないですか!
周囲に認められた、自分はがんばったんだ・・・と思えるまでがんばってほしいです。
私は、フラメンコギタリストとして20年以上活動を続けています。才能ではなく、努力によって日本人離れしたリズム感覚を得ました。リズムに悩む人たちに多くのアドバイスをして上達の助けになっています。
コロナ騒動後は社会活動家としても看板を掲げ、コロナ対策に反対する街宣活動を自身の主催で500回以上も行いました。チラシのポスティングは数万枚行いました。学校、行政などへの抗議活動、選挙応援もたくさん行いました。
現在は、○○反対の活動に見切りを付け、新しいスタイルでの街宣活動を50回以上行っています。
ここまでやれば、どんな人でも承認欲求は満たされると思います。
これこそ、等身大の自己肯定です。やった分だけ自分を肯定できます。
もちろん、個人差はあるでしょう。
500回もやらずに済む方もいれば、数千回必要になる方もいるでしょう。
それはさすがに・・・私の知るところではありません。
私はただ、みなさんの承認欲求が満たされて、等身大の自己肯定を高め、笑顔の多い生き方をしてほしいと願っています。それが周囲を幸せに導くと信じています。
長い記事を最後までお読みいただき、ありがとうございました。